1.8^2記

きれいなものを永遠にとじこめたい

書評:「裏山の凄い猿」舞城王太郎

なにかしらアウトプットしないとあっというまに死んでしまうぞ、という危機感から、生まれて初めての書評を書いてみる。舞城王太郎はとても好きな作家で、社会人になってから初めて手に取ったのだが、タイトルが目を引く「好き好き大好き超愛してる」から入り、なかなか面白いなと思って、手軽な短編として「みんな元気」を読み、悪くはないな~と思って調べていたら、デビュー作が最も衝撃的だという噂を耳にし、「煙か土か食い物」を読んだ。

 

これが、舞城との本当の出会いとなった。生きるとは、人生とは何かを青臭いながらも感じたたぶん24歳。

 

そんな舞城王太郎の最新の短編を読みました。2018年12月発表。

 

物語の発端は、相も変わらず福井県西暁町が舞台で、子供見守り隊なる互助組織が発足したものの、フリーライダー的な人たちに濫用され制度が崩壊、あまつさえ最後には子供を預かった担当者が子供を放置し、その子供が行方不明となるという事件が起きたところ。

 

行方不明の子供は裏山の凄い猿(いいやつ、賢いやつ)に保護されているところを発見され無事だったものの、カニ(悪いやつ、いたずらで子供の体内に苔の球を埋め込む)にいたずらされ病院で治療を受けることになる。

 

すると、町内にいた幸太さん(42歳)が2歳の時に行方不明になった兄啓太さん(当時6歳)が実は生きていて、それが裏山の凄い猿としているのだと信じ、幸太さんは山に入ったまま行方不明になる。みんなが幸太さんを探しに山に入るが、主人公はむしろ啓太さんが行方不明になった経緯を不思議に思い、そちらを追ってみると、啓太さんが6歳のまま見つかる。彼はカニにだまされて暗い水路にひきずりこまれていた。

 

結果、啓太さんは戻ってくるが幸太郎さんはもどってこないというもの。ちゃんちゃん。 僕の要約が下手なのか、舞城の物語がぶっとんでるのかわからないが、こういうお話です。

 

この物語にはいくつか論点があって、①まずあるのが「子供見守り隊」の是非について。これは手が余った人が忙しいお父さんお母さんの代わりに子供の世話をしてあげるというもので、一見いい制度なのだが、人間の本性には逆らえず、厚かましい人たちに濫用され、本来の目的から離れたような運用となる。(というか預けられた子供をちゃんと見てなくて行方不明になっとるし)

 

これについて主人公は、制度的な欠陥があり、問題だという。それについて主人公の同僚は反駁する。問題はありつつも、これによって救われる人たちがいて、これは制度として破綻している・やめるべきだ、という主張は、そのような救われる人たちの存在を無視していると。理性的に、さかしらに白黒をはっきりとつける、論理的に正しい結論は、プラクティカルではないという主張。「優しさより正しさが先行するような感じ」

→これはその通りというか、身につまされるというか、自身にもそういうところがあるので、戒めとしました。正しさを追求する人は、別にほんとに物事をよくしたいと思ってるわけじゃなくて、自分が正しいことを示したいだけやねんな。そのような責任感のない姿勢は大人じゃないし、それでは人を背負えないよね。あほな人があほな制度を作る、人を助けるとはそんな簡単なことじゃない、と言ってのける主人公は、そうのたまうだけで、自分が人を助けたことはないし、その過程の試行錯誤やリアルをすべて知らない。この課題は現代的であると思う。自分の目で見たものを大切にしたい。

 

 ②これに反省した主人公は幸太さん・啓太さんの捜索に加わり、カニにさらわれた啓太さんを見つける。なぜいたずらをするのかカニに問うと、カニは答える。「いたずらに意味なんかないですよ。苔玉が面白いかなと思っただけです。」

→まさしく、不条理であったり災厄というのはこのように降りかかるものである。そこに意味なんてないのだ。ただ人がさらわれたりして、悲しみが一方的に与えられ、意味はない。それが人生の不条理というもので、2歳の幸太さんは兄を失い、その後40年間兄を忘れず、兄を探しに山に入り、行方不明になる。そして見つからない。これが人生である。

一見突飛な設定、突飛な物語に見えるものの、比喩的に語られるだけでこんなことはいつでも自身の身に起きうる。たとえ僕が明日交通事故にあって死んでも、そこに意味はない。

 

③最後に、物語の結びとして主人公は言う。幸太さんが不思議にいなくなって、啓太さんが不思議に帰ってくる。これは物語としてはよくある話で、二人は交換されたのだ。

 

でも

 

そうじゃない。それを認めない物語を持つべきなのだ。「こういう話はこうなるよね」なんていうなんとなくの流れに身を任せていてはいけない。「二人仲良く兄弟が元通りに過ごす」という結論を望むのであれば、そのような物語を紡ぐべきで、「寓意なんかに気持ちをこなされないように、気を張って生きるしかないのだ」。ちゃんとあきらめずに求めていく。

→これはすごくニーチェ的な考え方やと思ってて、舞城の好きなところでもある。不条理があって、それを仕方ないとするような認識が世の中にはびこっていて、だから人はあきらめて、自分を納得させて生きていく。

 

そうじゃない。それを打ち破るような物語を自分で紡いでいく。その物語への確信が、自分を変え、周りを変え、世界を変えていく。そういった人間の強い意志が、この世の中を回してきたし、回しているのだ、という性善的な人間観。

 

これが舞城節ですねえ。僕も決してあきらめない。人の物語に流されず、自分の物語を紡ぎ、信じ、そして現実を変えていく。物語はそのためにあるのだ、というお話。

 

 

 

 

結論としては、(舞城の)物語としては凡作というか、人生を変えるような衝撃を持つものではないが、楽しい読書になりました。書評ってなかなか楽しいね。